現実と建前と理想の狭間もまた現実で、

 先日の(表現の自由については、 - ぼんやりつれづれ)続き、そして補足、
 あるいはid:y-yoshihideさんへの応答として。


 ソフトウェア倫理機構は、とある事件への対応のために設立された組織であって、単なるエクスキューズのための組織であるというのは、まあ、設立当初の経緯からすれば妥当な見方ではあります。
 ですが、建前としての目的は無視されていいものではないはずです。消費者、製造者、そして団体本体にとっても。


---法人概要/目的と事業--- EOCS/一般社団法人コンピュータソフトウェア倫理機構オフィシャルウェブサイト


 人権に関わりないということは、この建前がある以上基本的には言い切れないものがあります。なぜならその建前は、いったい何のために立てられたのか? という問いに答えられなくなってしまうからです。
 とは言うものの、実態として伴わなければ意味がないというのも当然です。しかし、それは同時にこの団体の存在意義すらも否定しかねません。
 そもそも、何かしらの事件、圧力、社会要請、そして人権に対応して作られたということは、その社会全体に組み込まれることを意図して作られたという前提が含まれるのです。否応なしに。
 先ほどエクスキューズと書きましたが、エクスキューズとは、そのようなものもあることを認めてくれという意図によって行われるのであって、今やっている事を正当化するために行われるのではないでしょう。もちろん、一部には正当化も含まれるのでややこしくなるわけですが。
 そこには欺瞞と妥協があるわけですが、真実や主張がなくなったわけではありません。一部の真実と、多くの欺瞞とが混ざり合ってできあがるわけです。そしてそのどちらが足りなくとも、成立せず、それが故に社会に対するクッションとして機能しているのではないでしょうか。


 もちろん、クッションでしかありません。強固な盾とはなり得ません。
 今私たちが享受している自由を完全に守ってくれる砦ではないのは、今回の騒動でも明らかです。
 しかし、どうでしょう。今、私たちはレイプレイに代表されるようなゲームを失ったでしょうか。メーカーは作る自由を完全に奪われたでしょうか?
 Equality NOWの要求はそれを求めていたはずです。でもそうはならずに、その前にアクションを起こし、私たちに波及する衝撃を多少なりとも和らげました。
 実のところ、これは逆の方向でも同じ事です。少なくともゾーニングという(例のあのシールなど)アクションによって、以前のような野放図にはならず、やはり、多少なりとも社会の要請、圧力、そして性的な被抑圧者に対してのクッションとして機能しているのです。


 それは、社会に組み込まれた機能であり、それは同時に私たちが社会に組み込まれているということと同義です。
 であるからこそ、防衛手段でもあるわけです。社会に組み込まれんがための建前です。排除されないためのエクスキューズなのです。
 私たちにとっても、私たちの行為のよって傷つく人たちにとっても。引きずられるように。


 そして、私はそのソフトウェア倫理機構のクッションは、今回は弱かったんじゃないか、もしくは強かったんじゃないか、という事を考えるべきだと思うのです。もしクッションが弱すぎれば私たちが潰れ、強すぎれば、向こうはさらに押す力を詰めるでしょう。そして、場合によっては、傷ついた人がさらに傷つくことになるのです。


 繰り返しますが、このような機構は基本的にクッションです。柔らかいものです。決して確かに私たちを守ってくれるような壁とはなり得ません。
 だから、私たちの自由が減らされることもあるでしょう。もしかしたら、一部のメーカーは耐えきれずに潰れるかもしれませんし、それがために私たちが欲するものが減ることもあり得ると思います。
 それはメーカーにとっては、死活問題ですし、当然その従業員にとっても生活の糧を奪われ、仕事としての誇りを奪われかねない事態です。そして私たちは自由を奪われます。たとえ、部分的であったとしても。


 だからこそ監視されるべきですし、また、逆の方向からも監視されるべきなのだと思うのです。


 そういった押し合いへし合いの狭間の中に、ソフトウェア倫理機構は立っています。エクスキューズとして、防衛手段として、そして社会に組み込まれた機能として設立されたがために。
 当然、同時に倫理も問われます。社会の中の仕組みなのですから。


 ところで、あそこに掲げられている建前には前提として人権が絡まざるを得ないといいました。
 その人権は当たり前のことなのですが、私たちのことも含まれます。
 すなわち、その共存のため、お互いの人権を守るためという前提によってこそ、この建前は成立するということになるのです。


 今回、私たちの自由は制限されることになりました。少なくとも表現は自主規制され、一部タイトルはおそらく延期を免れないでしょうし、同様に、制作者は場合によっては生活を困窮させられることになり、また誇りを著しく傷つけられることになったでしょう。
 残念ながらクッションは所詮クッションです。今の私たちを守ってくれるわけではあり得ないのです。


 けれども、建前は、その前提と共に、とりあえず守られているのではないか、それを目指すことすら奪われていないのではないか、とも考えられるのではないでしょうか。
 それは同時に将来への展望は、とりあえず守られている、ということなのではないでしょうか。


 社会は変動します。良い方にも悪い方にも。
 そして社会に組み込まれることになった私たちもまた、変わっていくでしょう。
 けれども、目指すべき地点(茫漠でとても可能とは思えないような遙か彼方ではありますが)は、守られなければならない。
 その為の機構として、ソフ倫は存在するのではないか。
 そして、それを監視し、監視されること、それこそが、社会に組み込まれて生きざるを得ない私たちにできる、とりあえずの(実際とりあえずでしかありません)、わずかばかりの行動ではないか、と思うのです。


 ソフトウェア倫理機構は、国の機関ではありません。防衛反応として設立されたとはいえ、自主的な規制のための機関です。
 なればこそ、私たちは、その動向を、もう少しきちんと見るべきではないだろうか、と考えている訳なのです。




追記として、
 とは言え、この手の機関が堕落したり、建前を無視したりして行動することは良くあることでして(この時代に生きている私たちは、よく知っていると思います)、その時はつぶしちゃったっていいと思っています。
 その為の監視も含めての「監視」と考えています。逆の方向からも同様です。
 大切なのは、機構じゃなく、機構の働きでありますから。