また、間が空いてしまって、そして、

なぜ間が空いたのか、と言えば、書いていいのかどうか悩んでしまったから。
もちろん、生活習慣にブログを書くという行動がうまく標準化されなかったというのもあるのだけど(と言うとなんとなくかっこいいような気もするけど、単にめんどくさくなってきたのだろう)。
けれど、書いていいのかとか、どう書くべきなのかということを逡巡したのがきっかけであったのも事実で、今でも実のところ悩んでいる。
性的な問題について考える時、自分自身の嗜好のことも考えるけど、同時に今まで付き合ったことのある女性や、付き合わなくともいいなと思った女性、男性、そして今も続いている児童館のボランティアで見てきた子どもたち、親たちの事例が浮かぶから。
考えていく時、それらを外して考えることはほぼ皆無で、だからこそ書いてしまうことにためらいを覚えてしまう。それは、現実にいる今では姿形、考え方も変わってしまっているかもしれない彼らを蹂躙することではないかということを考えてしまう。
また、今現在付き合いのある彼らを彼らの見えないところで傷つけてしまう行為にも思えてしまう。
もっともそんな中学生みたいな躊躇いは、他の文章(印刷物など)ではそれほどもう覚えていなかった。でもブログということになると、なんとなく違うような気がしてならない。
ブログで公開するということは、そういったものとは違う時系列に放り込むような気がするからだ。
本当は、そうでもないということはわかっているわけで、そこら辺、単なるいいわけだろうといわれればその通りで、
さて、どうしたものかなと考えて、とりあえず、ちょこちょこまた書いてみようかなと思い始めているところ。
まあ、直接的なきっかけは非実在青少年ってあれなんですが。
とまあ、相変わらず頭に浮かぶことをつらつら書いてみようと思う。

ま、それはそれとして、

 とりあえず、この話は収束する方向になっているのかなぁ。
 以下、今日読んだのを一応まとめとして。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090614/1245018582
http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090613/1244917026
リベラリズムと他者危害(追記アリ - 地下生活者の手遊び
欲望が問われるとき - 地を這う難破船

 うーん、これをきちんと理解するだけで大変そうだ。
 でも、これ以上、言及するのはやめておいた方がいいかもしれない、とちょっと思うぐらい深く考えられた論考だと思います(その前のやりとりも含め)。
 やれやれ、やっぱりこういうのを考えるのは、大変だなぁ。
 それでも、やっぱりどこかで意識しておかないといけない事柄だとは思うんですけどね。
 ゲーム愛好家に限らず。

現実と建前と理想の狭間もまた現実で、

 先日の(表現の自由については、 - ぼんやりつれづれ)続き、そして補足、
 あるいはid:y-yoshihideさんへの応答として。


 ソフトウェア倫理機構は、とある事件への対応のために設立された組織であって、単なるエクスキューズのための組織であるというのは、まあ、設立当初の経緯からすれば妥当な見方ではあります。
 ですが、建前としての目的は無視されていいものではないはずです。消費者、製造者、そして団体本体にとっても。


---法人概要/目的と事業--- EOCS/一般社団法人コンピュータソフトウェア倫理機構オフィシャルウェブサイト


 人権に関わりないということは、この建前がある以上基本的には言い切れないものがあります。なぜならその建前は、いったい何のために立てられたのか? という問いに答えられなくなってしまうからです。
 とは言うものの、実態として伴わなければ意味がないというのも当然です。しかし、それは同時にこの団体の存在意義すらも否定しかねません。
 そもそも、何かしらの事件、圧力、社会要請、そして人権に対応して作られたということは、その社会全体に組み込まれることを意図して作られたという前提が含まれるのです。否応なしに。
 先ほどエクスキューズと書きましたが、エクスキューズとは、そのようなものもあることを認めてくれという意図によって行われるのであって、今やっている事を正当化するために行われるのではないでしょう。もちろん、一部には正当化も含まれるのでややこしくなるわけですが。
 そこには欺瞞と妥協があるわけですが、真実や主張がなくなったわけではありません。一部の真実と、多くの欺瞞とが混ざり合ってできあがるわけです。そしてそのどちらが足りなくとも、成立せず、それが故に社会に対するクッションとして機能しているのではないでしょうか。


 もちろん、クッションでしかありません。強固な盾とはなり得ません。
 今私たちが享受している自由を完全に守ってくれる砦ではないのは、今回の騒動でも明らかです。
 しかし、どうでしょう。今、私たちはレイプレイに代表されるようなゲームを失ったでしょうか。メーカーは作る自由を完全に奪われたでしょうか?
 Equality NOWの要求はそれを求めていたはずです。でもそうはならずに、その前にアクションを起こし、私たちに波及する衝撃を多少なりとも和らげました。
 実のところ、これは逆の方向でも同じ事です。少なくともゾーニングという(例のあのシールなど)アクションによって、以前のような野放図にはならず、やはり、多少なりとも社会の要請、圧力、そして性的な被抑圧者に対してのクッションとして機能しているのです。


 それは、社会に組み込まれた機能であり、それは同時に私たちが社会に組み込まれているということと同義です。
 であるからこそ、防衛手段でもあるわけです。社会に組み込まれんがための建前です。排除されないためのエクスキューズなのです。
 私たちにとっても、私たちの行為のよって傷つく人たちにとっても。引きずられるように。


 そして、私はそのソフトウェア倫理機構のクッションは、今回は弱かったんじゃないか、もしくは強かったんじゃないか、という事を考えるべきだと思うのです。もしクッションが弱すぎれば私たちが潰れ、強すぎれば、向こうはさらに押す力を詰めるでしょう。そして、場合によっては、傷ついた人がさらに傷つくことになるのです。


 繰り返しますが、このような機構は基本的にクッションです。柔らかいものです。決して確かに私たちを守ってくれるような壁とはなり得ません。
 だから、私たちの自由が減らされることもあるでしょう。もしかしたら、一部のメーカーは耐えきれずに潰れるかもしれませんし、それがために私たちが欲するものが減ることもあり得ると思います。
 それはメーカーにとっては、死活問題ですし、当然その従業員にとっても生活の糧を奪われ、仕事としての誇りを奪われかねない事態です。そして私たちは自由を奪われます。たとえ、部分的であったとしても。


 だからこそ監視されるべきですし、また、逆の方向からも監視されるべきなのだと思うのです。


 そういった押し合いへし合いの狭間の中に、ソフトウェア倫理機構は立っています。エクスキューズとして、防衛手段として、そして社会に組み込まれた機能として設立されたがために。
 当然、同時に倫理も問われます。社会の中の仕組みなのですから。


 ところで、あそこに掲げられている建前には前提として人権が絡まざるを得ないといいました。
 その人権は当たり前のことなのですが、私たちのことも含まれます。
 すなわち、その共存のため、お互いの人権を守るためという前提によってこそ、この建前は成立するということになるのです。


 今回、私たちの自由は制限されることになりました。少なくとも表現は自主規制され、一部タイトルはおそらく延期を免れないでしょうし、同様に、制作者は場合によっては生活を困窮させられることになり、また誇りを著しく傷つけられることになったでしょう。
 残念ながらクッションは所詮クッションです。今の私たちを守ってくれるわけではあり得ないのです。


 けれども、建前は、その前提と共に、とりあえず守られているのではないか、それを目指すことすら奪われていないのではないか、とも考えられるのではないでしょうか。
 それは同時に将来への展望は、とりあえず守られている、ということなのではないでしょうか。


 社会は変動します。良い方にも悪い方にも。
 そして社会に組み込まれることになった私たちもまた、変わっていくでしょう。
 けれども、目指すべき地点(茫漠でとても可能とは思えないような遙か彼方ではありますが)は、守られなければならない。
 その為の機構として、ソフ倫は存在するのではないか。
 そして、それを監視し、監視されること、それこそが、社会に組み込まれて生きざるを得ない私たちにできる、とりあえずの(実際とりあえずでしかありません)、わずかばかりの行動ではないか、と思うのです。


 ソフトウェア倫理機構は、国の機関ではありません。防衛反応として設立されたとはいえ、自主的な規制のための機関です。
 なればこそ、私たちは、その動向を、もう少しきちんと見るべきではないだろうか、と考えている訳なのです。




追記として、
 とは言え、この手の機関が堕落したり、建前を無視したりして行動することは良くあることでして(この時代に生きている私たちは、よく知っていると思います)、その時はつぶしちゃったっていいと思っています。
 その為の監視も含めての「監視」と考えています。逆の方向からも同様です。
 大切なのは、機構じゃなく、機構の働きでありますから。

表現の自由については、

 正直、あまり発言したくないなぁ、というのが率直なところです。
 居心地が悪いし、生身の状態で(現実社会の消費者個人として)話すのも躊躇われるような対象でもあるので。
 しかし、下記でブックマークコメントをした以上、一応個人としての考えは出しておいた方がいいのかなぁと。


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1


 私個人としては、表現の自由は最大限尊重するべきだとは思っています。
 けれども、同時にそれによって傷つく人、そもそも差別的コードで楽しむという商品である以上、そこには自主規制というなの配慮がある程度必要になってくる事項ではあると思っています。
 他の日記(痴漢ゲームをしていたら、 - ぼんやりつれづれ)ではネットで傷つく人の実例を出しましたけれども、そうじゃなくてもああいう差別的コードを楽しむ商品というのは、どうしたってマナーが必要になってくるブツだと思うのです。


 以上から、表現の自由は歩けれども、他の人たちに対してある一定の配慮を国の規制という形ではなく自主的に行いましょう、というのが私の立場です。


 そして、その自主規制の現在表れている形がソフト倫理機構だというのは、ある種の表明になっているはずなんじゃないかと思っていたんですけどね。


 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E5%80%AB%E7%90%86%E6%A9%9F%E6%A7%8B


 元々、そういった差別的表現に対するマナーをどうするかという応答ということで作られた団体だったはずで、ここの動きが今回あまりにも外部に対して(消費者たちに対して)鈍かったというのは、ちょっとどうだったんだろうと思っています。


 実のところ、今回の発端であるレイプレイ海外流通については、Amazonに対して、ソフト倫理機構が抗議すべき事柄だったのではないか、もしくは、Illusionに対して(ここはこのソフトウェアメーカーがどのような経緯で流通したのかがよくわからないので一概に言えませんが)注意すべき事柄だったのではないかと思っています。
 実際、Illusionは自粛をしたようですが(詳しくはちょっとわかりませんでした)、私たちとしては、すでに自主規制の形として、今そういった構造を持っていますよ、組織を持っていますよ、というのがまあとりあえずの筋なのでしょう。
 また、今回の流通については、私たちの責任ではなく、そのような行為をした(いわばマナー違反した)相手にちゃんと抗議するべきだったと言うことになると思っています。
 そして、ソフトウェア倫理機構は、そこをどうしたのかはわかりませんが(すっとばしちゃったような印象を受けるんですが)、自主規制を強めるという対応をしたわけなんですよね。
 そこに怒るのならば、私はどちらかというと、その説明不足を(消費者側に対して)怒るべきだったんじゃないかなぁとは思うんです。
 もっとも、私はソフトウェア倫理機構は、それなりに良くやっていると思うんですけどね。
 消費者たる私たちに、あまり届いていないんじゃないのかなぁとも思いますが。


 けれども、一応その自主規制のところでのやりとりが、どうもすっ飛ばされて(正確には製造側への説明がメインで消費者側にはほとんどアピールされていないというだけなのでしょうが)いるので、今この問題が消費者としての私たちに直接降りかかっているというのが(それが実際かどうかはともかく感情として)現状なんじゃないかなぁと思っています。


 結果として、自主規制は強められたわけですから、私たちも規制されたように感じるのは当然なんですけれども。


 そして今出てきている規制は、いわゆる国の規制というものになってきました。というよりも、今問われている規制はどれかと聞かれたら、それだと答える人が多いのでしょう。
 それで、なんだか困ったことになっているんじゃないかなぁと、今の現状を見ると思っているわけなんです。


 もちろん、私たち個人がEquality Nowの問いかけに対して、きちんと耳を傾ける必要はあると思っています。答えるかどうかは別ですが。
 そもそも、それに応えるための機構を私たちは持っているはずなので(再三言いますがソフトウェア倫理機構)、個々人で応えることでは、必ずしもないものだと思っています。
 また、その応え方が問題あったというのであれば、その批判はEquality Nowではなく、ソフトウェア倫理機構にまず向けて、そこで圧力があってどうしようもないと言うのであれば、その圧力に向けるべきではないかと思っているわけなんです。


 国の規制はまだ当分先でしょうが(国会通さないといけないし)、もしもそれに対してきちんと対処しようとするのであれば、まず私たちのマナー、TPOといったものを十全にソフトウェア倫理機構に発信してもらう必要があるんじゃないかと思っています。
 というよりも、まずはそこだろうと。
 そして、私は今現在のソフ倫の対処を支持しています。これですべてうまくいくとは思っていませんが、一つの答えとして、まあ落ち着きどころだろうと。
 その上で、かつ、私たちにできる配慮とは何かを自問自答すべきではないかと思っています。

補足しておきますと、

 ネットを使わなくても生活できるという意見があるとは思います。
 それはその通りですが、ネットが生活を便利にしているという今の状態は無視できないことです。
 下記のブログの最後の段落、

とりあえず、漫画やアニメの女キャラの名前でイメージ検索したら、エロ同人画像がわらわらと出てくる現状は、どげんかせんといかんと思うよ。

http://anond.hatelabo.jp/20090518131333


 というのは、本当に考えなければならない事で、「ネット使わなければいいじゃない」とは言い難い時代になってしまっているという認識は必要だと思うのです。
 ネット通販だけでなく、交通情報、生活圏の情報、それだけでなく公共機関(役所なども含めて)にアクセスできるツールであり、それが一般的に認知されてきた時代であるということを。
 そして将来的には、ネットでなければその手の情報がほとんど手に入らなくなるという時代が来るというのもあり得るわけです。
 性的被害を受けた人が、その手の情報が氾濫しているからとてもネットを使えない、なんて言わざるを得ない現状は、問題じゃないのかなぁと。
 フィルターというのもありますが、そのやり方を知るためにもっとも効率的な方法がネットであったりするわけで。
 例えば移住登録をネットでできたりするわけですが、性的被害を受けた人は、わざわざ役所まで行かなければならなくなってしまったりするような事態になりかねないのです。
 それを「しょうがないじゃない、ネットはそういうところなんだから」で片づけるのはちょっと拙いと思うのですよ。
 
 
 ネットは、同人に限らず個人的なことをもコミットできるという、ある意味でマイノリティにとってとても嬉しいツールであったのですが、それがこれほど一般化してしまった場合、そのための配慮はやはり個々人が考えなければならないとは思います。
 私も、このネットを使って現実では口に出しづらいような同じ趣味の人たちを見つけることができたりして、楽しんできた者ですから。
 そのように、楽しんできた者の一員として、やはり考えるべき事柄だと思うのです。


 もっとも、解決策が提示できるわけではないのですけれども……。そこが辛いところでもあったり。


さらに追記しておきますと、
 そういった言説や商品を、ネットから削除するべきだというふうには思いません。
 むしろ、被害に遭われたりした人たちに対してフォローをきちんとするべきだと考えています。
 フィルターの使い方へのアナウンス、そもそもそういった人たちにちゃんと届くようなアナウンスなどを考慮するべきだろうと。
 ここら辺は社会的な関わりを必要とする課題でしょうが、やはりそこを通るべきだと思っています。

痴漢ゲームをしていたら、

 友人の女性から電話がきたことがありました。
「相談があるんだけど、寄ってもいいかな?」
 聞けばすぐ近くにいるらしいということで、喫茶店にするというわけにもいかず(うちの近所にはその手の店がないのです)、慌ててゲームを終わらせ、パッケージを見えないところに隠しました。
 それは、彼女が女性だからというだけでなく、痴漢被害者だったからです。
 これはマナーというべきなんでしょうか。
 いずれにせよ、やはりおおっぴらにそういった人に見せるべきものではないだろうと、私は考えたのでした。


 私個人は、いわゆる陵辱ゲームをプレイすることが多々あります。そうでない他のエロゲーも好きです。それは、私の個人的な嗜好によるものであり、そういったものを好んでいるということは、友人たちもある程度は知っています。
 でも、前面に押し出したりすることはしません。女性だけでなく、男性に対してもそうであり、エチケットに近い、NGとして話さないことにしてあります。
 まあ、私がそのようなゲームをしていることを友人たちは知っているので、その手の話を聞かれたりするのですが。

 ある時、上とは別の性的被害を受けた友人の女性が、ずっとやっていたmixiを退会した話を聞きました。
 mixiだけでなく、ネットを見るのも極力避けるようになったそうです。
 自分の受けた被害を明かしたりしたわけではないのですが、ネットに表れる性的なものに耐えられそうになかったからというのが理由でした。
 その発端は彼女が被害を受けてから、Googleで相談所を探そうと検索したら、そのような相談所よりも先にAVであったり、性的な話題のブログであったりが真っ先にヒットして、目的のものを見つける前に震えが止まらなくなってしまったそうです。
 そしてそれを受けて私も色々検索をしてみたのですが、確かに言われたとおりでして、困ったなぁと頭を抱えました。


 ネットはフラットな空間だと言われます。
 言葉、体験、歴史、商品、人物。それらがすべて同じように扱われているわけです。
 その中には性的なものも含まれていて、なおかつ、消費される性が氾濫しています。
 当然の事ながら、私もネットを利用して性的な商品を買ったり、話をしたりします(もちろん、それ以外もたくさんあるわけですが)。
 そして、ネットは今や生活に欠かせないものとなっているのです。
 こうした時、性的な被害を受けた人はどうしたらいいのだろうと考えてしまいます。
 特に、日本のようにブログが流行している地域だと、内面の話がそれこそ検索のトップページにきたりすることだってあるわけで、それを目にしないでネットを利用するということはきわめて難しいと言わざるを得ません。
 内面や発言を規制してはならない、とは思うものの、そういった人たちの行動だけでなく生活を阻害する可能性があることは、もっとよく考えなければならない時代になってしまったかもしれません。


 最初に出した話では、隠すことができました。
 でも、ネットでは隠すことができません。
 今私が書いたこのブログが、性的被害を受けた人の生活を阻害する可能性だってあるわけなのです。
 なので、性的なゲームを楽しんでいる者としては(あるいは性的な差別コードを妄想として楽しんでいる者としては)、今この現状において、性的な被害を受けている人たちに対する応答を避けるわけにはいかないだろうなぁ、と思ってはいるのですが……。
 うーん。どう言ったらいいのかなぁ……。




追記として、
 今回はネットの話だけになりましたけれども、基本的に社会的生活をしている以上、これらの話はどうやっても応答を逃れられないものだと認識しています。その息苦しさと、居心地の悪さは誰しも持っているのでしょうけど。
 ただ、ネットでの問題は、これらの問題をより(誰でも)コミットしやすくしている分、応答の迅速性がより求められているのではないかとは思うのです。

とまあ、ぼんやりと、半分眠りながら、

つれづれ書いています。
久しぶりの休日なんで。
いやー、派遣村が近く見えてくる年末年始でした(笑い)。
日記じゃなくて、むしろ覚え書き? みたいなー。
なので、ブログタイトルも変えてみました。
いや、あまり意味無いけど。
でも、なぁ。
何書いているんだろうね。私(苦笑)。