でもまあ、今の教育を考えるなら、

やっぱり体罰イカンと思いますね。
体罰が禁止になったのは、一体何故かはよく知りませんが(ちょこちょこっと調べても、理由が色々出てきてまとめづらい)、現実問題としてそうする余裕ができたっていうのがあると思います。
前段で書いてたけど、多分、家庭に躾とか教育とかをする余裕ができたってことだと思うんですよね。
そうすると、教師の全人性は邪魔になってくる。今までは教師に任せていたものを、家庭がもっていくわけで、そこの綱引きの中で体罰という端的な暴力的手段は、一番問題になりやすいってのもあったんじゃないかなと。
依怙贔屓とか、教育手法とかと比べると、体罰って抽出しやすいし、見つけやすいしね。
ここら辺は医療問題でも同じことがあると思うんだけど、「お任せします」って言えなくなったんだと思う。もちろん、今でも任せる家庭はあるんだけど、任せない家庭もあるわけで、そこら辺で齟齬が生じて、問題行動(としやすいもの)を削除していくことになったんじゃないかなあと想像するわけです。
体罰容認派と、体罰否定派が混じり合った顧客がいたら(そしてその比率が無視できなくなってきたら)、とりあえずやめておいた方が無難でしょう。
もちろん、その統括としての国(文部省になるのかな?)も、そうなるんじゃないかなぁ。
で、任せたい(任せるしかない)親なんかはまだいたりするから、戸塚ヨットスクールとか、もしくは先日起きた面接試験に対する擁護とか(コレは体罰問題じゃないけど教育問題として)が起きるんじゃないかなぁと思うわけです。
で、こういう状況(教育百花論争)の中では、体罰なんていうような行為はやはり許されるべきじゃないと思うんですよね。
効果があるかどうかは別として、そういった色んな人がいるという前提に基づいて今の国はできあがっているわけで、その中でごく少数の人間が被害を受けやすい行為は、なるべく無くしていった方がいいと思うわけです。
みんながみんな体罰を受けるというのならまだしも、基本的に罰を受ける人っていうのは、少数になりやすい。そしてその少数には色んな事情がありうるわけで、そういったことを暴力をもって制してしまうというのは、なるべく減らすべきだと思っているんです。
もちろん、どうしようもない事例はあるだろうけど、それはもはや教師個人が引き受けるような事柄じゃなくなってきているし、そしてそれを教師が引き受けられる事でもなくなってしまっているんだろうと。
ここら辺、教育の変化というよりも、社会の変化と考えるべきなのかなぁ。うーん……。
引き続き、色々考えなきゃいけないなぁ。
自分でもいまいち納得できてないです。