去年の年末にデジタルネイティブっていう番組があったけど、

なかなか面白かったです。
いやー、凄い子どももいたもんだーとか呑気なことを思いながら眺めていたのですが、それと同時に、もうちょっと違うものがあるんじゃないかなーと、後になって思い始めてきました。
どこかのサイトで子どもの携帯使用率データというのがあったのですが(どこのサイトか忘れたので引っ張ってこれませんが)、そこでは小学生の高学年ぐらいからメールが格段に増え、それから中学3年生あたりでネットの使用率が増えてというグラフがあったのです。
アンケート調査だったはずですが。
でも、あれ、ちょっと違うんじゃないかと思うのです。
アンケート調査というのがミソでして、つまりアレは「子どもたちが携帯をどのように使っていると意識しているか?」というデータが出ているんじゃないかと思うんです。
つまり、正しく携帯を使っているデータが出ているわけじゃないと思うんですよ。
と言いますのは、私は児童館などに顔を出したりすることが多いのですが(青年会などの関わりで)そこで子どもたちと触れていると、どうもおかしいなと思うことがあるのです。
例えば、メールだと見せられたのがmixiニュースだったり、今どんな歌手が好きなの? と聞くと、mixiのコミュニティだったりして、そしてそれらをメールだと認識しているようなのですよ。
彼らは大体小学生ぐらいですが。
友だちから来たメールに添付されたアドレスを開くのを、メールの続きのように感じているようなんですね。そこに区別はないみたいなのです。「だって、携帯で見てるじゃん?」。そんな感じ。
もちろん、PCを使っているような子どもは、そんなことはなかったりします。そこでは区切りを認識しやすいんでしょうね。でも携帯だと、それらは全部地続きで、区分けする理由もあまり感じてないようなんです。
まあそうですよね。だって、友だちとやりとりしている間の話題だったり、他の友だちとリアルタイムで話しているようなものなだもの。
これはネットで、これはメール。そんなことを言っても、感覚的に違わなければ、問題が起きない限り区切りをつける必要性がないんでしょう。
ですから、さっきのデータはそういう区切りを知識として仕入れてきただけじゃなくて、必要になり始めて、そこでようやくそうだと認識し始めてきたものなんじゃないかなぁと思えるのです。
そして、デジタルネイティブっていうのは、実はプログラム技術が凄いとか、すぐに新しい機器が使えるとかそんなのではなく、「そういう感覚を最初からもっていること」、そのものなんじゃないかなぁと思い始めたのです。
デジタルネイティブというのは、技術で実現する、その何かを感覚で分かっている子どもたち。つまり、「これから先使えるようになるであろうイメージ」を持っているっていうことなんじゃないのかなぁ。
これは、恐らく彼らじゃないと、分からないようなものではないのかなぁと思えるのです。
よほどの天才でもない限り。
だって、彼らは私たちが見ているものとは違うものを見るように、ネット、メール、携帯というものを見ているのですから。
新しい発想とか、そういうものをイメージする土台が、そもそも違っているし、そして新しいイメージはこれから彼らが生きるであろう世界で使われるものなのですし。