ちなみに、体罰の効果って、

まあ、あるんでしょうね。
実際私は、今はそれでしっかり生きているんだし。他の人も同様で、感謝している人もいるし、それで初めて知ったという人もいたりする。
体感として、体罰の効果ってわかりやすいし、覚えているんです。
でもそれは「体罰があったから」じゃなくて、「体罰を認める事ができたから」だと思うんですよね。
体罰で教える事の効果ていうのは、その前にそれを教える人に対する信頼があってこそであって、そうじゃない人にいきなり体罰を受けても、「なんだかよく分からないうちに暴力振るわれた」ってことになりかねない。
今や教師だから、というのが無条件で教える人になりにくい時代に、どうやってその前段階を教え込ませるのか、というのはなかなか難しい問題で、それは体罰の効果が取り上げられやすいことと、無関係ではないように思えます。
体罰には、「悪い事をしたら痛い事になるんだ」という体感による教えと、「悪い事をしたら、この人に痛いことされるんだ」という覚えの効果があると思います。
ぶっちゃけ、この人は怖いし強いから言う事聞かなきゃいけないっていう、上の人間としての認知。
大体言う事を聞かない子っていうのは、悪い事をしているという自覚がないってことと、この人の前でやっても大丈夫っていう、双方があって成立すると思うんですよね。
ここら辺は大人じゃなくても子ども同士の関係でも同じ。「この場でこういうことやったら嫌われる」というような、TPOを一応子どもは認識しているはずです。
もちろん、態とやっている場合は、そのTPOを知った上で態とやるわけで、それは反抗だったり悪戯だったり色々なんでしょう。
その意味では、そういったTPOを教えるという意味では比較的わかりやすい動機になりうるとは思います。だって、位置関係がまるわかりなんだもの。この教師がいる学校内では、やれないっていうことを。学校はそういう場なんだっていう風に。
ここら辺が、躾といわれる要因だろうなぁ。
正直なところ、「学校はそういう場だから」というのは家庭では教えにくい事柄だと思います。TPOを概念的に理解できているならともかく、まだ小学生になったばかりの子どもなんかは、その場その場で判断している側面が強いだろうし。
最初の頃は、「先生がいるから」「学校だから」よりも「みんながいるから」というTPOが働いているんじゃないかなーと思います。大人しい子も、騒がしい子も。
その上で、ゆっくりと1年生から順に「学校だから」「先生がいるから」というTPOを教え込ませていっているんだと思うんですよね。小学校教育って。その上で勉強を教えているという側面があると思います。
これらを教えるための体罰……あれ? なんか袋小路に入っていますね(苦笑)。
継続的に考えたいところです。

でもまあ、今の教育を考えるなら、

やっぱり体罰イカンと思いますね。
体罰が禁止になったのは、一体何故かはよく知りませんが(ちょこちょこっと調べても、理由が色々出てきてまとめづらい)、現実問題としてそうする余裕ができたっていうのがあると思います。
前段で書いてたけど、多分、家庭に躾とか教育とかをする余裕ができたってことだと思うんですよね。
そうすると、教師の全人性は邪魔になってくる。今までは教師に任せていたものを、家庭がもっていくわけで、そこの綱引きの中で体罰という端的な暴力的手段は、一番問題になりやすいってのもあったんじゃないかなと。
依怙贔屓とか、教育手法とかと比べると、体罰って抽出しやすいし、見つけやすいしね。
ここら辺は医療問題でも同じことがあると思うんだけど、「お任せします」って言えなくなったんだと思う。もちろん、今でも任せる家庭はあるんだけど、任せない家庭もあるわけで、そこら辺で齟齬が生じて、問題行動(としやすいもの)を削除していくことになったんじゃないかなあと想像するわけです。
体罰容認派と、体罰否定派が混じり合った顧客がいたら(そしてその比率が無視できなくなってきたら)、とりあえずやめておいた方が無難でしょう。
もちろん、その統括としての国(文部省になるのかな?)も、そうなるんじゃないかなぁ。
で、任せたい(任せるしかない)親なんかはまだいたりするから、戸塚ヨットスクールとか、もしくは先日起きた面接試験に対する擁護とか(コレは体罰問題じゃないけど教育問題として)が起きるんじゃないかなぁと思うわけです。
で、こういう状況(教育百花論争)の中では、体罰なんていうような行為はやはり許されるべきじゃないと思うんですよね。
効果があるかどうかは別として、そういった色んな人がいるという前提に基づいて今の国はできあがっているわけで、その中でごく少数の人間が被害を受けやすい行為は、なるべく無くしていった方がいいと思うわけです。
みんながみんな体罰を受けるというのならまだしも、基本的に罰を受ける人っていうのは、少数になりやすい。そしてその少数には色んな事情がありうるわけで、そういったことを暴力をもって制してしまうというのは、なるべく減らすべきだと思っているんです。
もちろん、どうしようもない事例はあるだろうけど、それはもはや教師個人が引き受けるような事柄じゃなくなってきているし、そしてそれを教師が引き受けられる事でもなくなってしまっているんだろうと。
ここら辺、教育の変化というよりも、社会の変化と考えるべきなのかなぁ。うーん……。
引き続き、色々考えなきゃいけないなぁ。
自分でもいまいち納得できてないです。

教育とか、躾とか、体罰とか。

最近体罰の問題が取りざたされているみたいで(実際にそれほどニュースになっているのかはよく知らないんだけど)、色んなブログで話題になっているようです。
私の子どもの頃は、下町という条件もあったけれど、結構体罰がありました。私もでっかい三角定規で殴られたことがあったっけ。
で、それを恨んでいるかって言うと、そーでもないけど、でもそれと今の体罰とはまったく別物だなあと思ったりもしていたりするのです。
自分の経験を、単純に当て嵌めるのはよくないと思っているだけですけどね。
なんでかって言うと、その頃と今って、全然状況が違うからと思うからなんですよね。
例えば、その頃サラリーマンの子どもなんていうのが珍しかった。みんな自営業の子どもで、ぼろい仕事場兼住居の一戸建てに住んでいて、高層住宅に住んでいる子どもがいたら、とりあえずどんなものか見に行くなんてことをしてました。
そんな環境だと、当たり前だけど親が子どもの勉強を見るなんてほとんどできなかったんですよね。支え合いが必要だった。
だって、家では仕事してるし、母親も仕事してるし、そもそも親が九九もできないなんていうのもあったりした。
たかだか30年ほど前のことですよ? でも実際あった。
それが当たり前で、だから学校で教えてもらうのはありがたくて、殴って躾してもらうことに、なんの疑問も持ってなかった。
だって、家でやれないんだもの。
でも今は違うわけで、家で躾するのが当たり前で、そうしない親は親失格と言われちゃう。「できなくても」、「しなくても」同じこと。
そこら辺を混同しちゃうと難しいことになるけど、その話は別においとくとして、とりあえず、今は今で、考えなきゃいけないんだろうと思うんですが……。
うーん、どこから考えるべきなんでしょうね? 難しい。

そんなニコニコ動画だけれども、

先に出したネットサーフィンは、実のところもう当たり前のように生活に定着しちゃっていたりするわけで。
あの頃のように楽しむためにはしていないんだけど、生きていく上では必要不可欠になって、無意識のようにやっているわけです。
ニコニコ動画も同じようになる……わけないんですよね。あれは、あくまでエンターテイメント・コンテンツだから。
そうなると、楽しいっていう一体感が無くなった人たちは、多分離れていっちゃうんだろうと思うんです。
色々と議論されているニコニコ動画だけど、その立ち位置は雑誌と同じように、ネット上の一コンテンツでしかないんじゃないかなぁ。
その内、廃刊ならぬ、廃業ってことになったりして。
存在意義が無くなったって言われちゃった、ヤングサンデーのように。

ニコニコ動画って、

あんまり見てないんですよね。
一時期は狂ったように見たものだけど。
気が付いたら、ある程度どうでも良くなってきた。
何でだろうっていうのはわからないけど、ネットサーフィン(古いね)と同じで、飽きちゃったんだろう。
今でも色々話題にはなっているし、ネタとして振られることもあるからチョコチョコとは見ているんだけれども。
コンテンツ産業って難しいんだろうなぁ。

初ブックマークのコメントに、

気になるコメントがあって、一言添えようかと思ったけど、記事の主題が違うので、ここで書いてみる。
「男ってセックスできないと尊厳を失う生物なんだ!!」
とあったわけだけど。
で、勝手に返答。
社会的には、そう。生物学的にはどうか知らない。
ローンウルフを格好いいと思う人がいるけれど、狼にとってはどうかはわからない。
狼社会では単なる邪魔者なんじゃないかとも思ったりする。
これは他の動物でもそうで、ライオンなんかもそうなんじゃないかなぁ。雌を持たないライオンは、ライオン社会では阻害された存在になる。
ああいう状態で尊厳って、社会的に保たれているんだろうか?
ちょっとわからない。
でも、意味無いよね。いなくてもいいんだし。むしろ邪魔なんじゃないだろうか。
セーフティという意味はあるかもしれないけれど、それは個としての彼らにとっては関係のない話。メタじゃなく、主体として。
「俺という存在がいるから、狼社会はバランスがとれているんだ!」
って思ってないよね。多分。
思ってたらごめん。
人間社会では、童貞を笑うというのは、結構ある話。
それは、男からそうしている。
それは女性からしたら、どうなんだろうと思うけど、実体としてそうなんだよねぇ。
女性からそう言っている人もいるけど、それは大抵はそういう男社会の規範に沿って言っていることが多いような気がする。男目線ではなく、男社会で生きている、女性からの視線。
昭和チックかもしれないけれど。
もっとも、そういうのはだいぶ変わってきている。独身でもいいっていう社会に日本はなっているし。
でも、個々の規範意識はそれほど変わっている訳じゃなく、それが結婚からセックスに変わっているだけなんじゃないかな。
そういう枠組みとしての社会と、意識としての社会が、まだ整合取れていない状態なんだろうと思う。
その内、セックスしなくても尊厳保たれる状態になるのかもしれない。
……家族がミニマムな社会として組み込まれている内は、無理もしれないけれど。